花火の授業 加藤克典
2013年06月04日
こんにちは。
加藤克典です。
弊社では、3年前から地元の行政の方々と協力して、小学校で花火の授業を行い、子供たちにスターマインの構成を考えてもらい、実際に花火大会で打ち上げるという企画を毎年行っています。講師は今のところ、毎年私が務めています。
3年間続けるうちに、色々なことが感じられるようになりました。
まず、子供は思った以上に大人のことを見ており、かつわかっています。同時に、私が思っている以上に、私が子供のことをわかっていないこともわかってきます。
毎回夏休み明けに、花火を見終わった後の「ぼく達から加藤さんへの感謝の手紙」的な心のこもったプレゼントを頂くのですが、書いてあることが非常に的を射ていてタジタジになってしまいます。封筒を開けることは毎年、嬉しさが殆どですが、ある種の恐怖も混ざっています。
例えば…。
「加藤さん、まばたきが多いからもっとリラックスして欲しい。」
→申し訳ない。
「スターマインって何なのか、途中まで分からなかった」
→初年度の強い反省。申し訳ない。
「『子供たちに○○○』ってタイトルのミュージックスターマインなのに、そんな曲知らない。」
→授業で参考に使用した動画に対する意見。まさに的を射ています。私たち大人の都合で子供という単語を使ったところで、大人の心には届いても肝心の子供の心には届きません。ちなみに、私もこの動画のスターマインをタイトルから内容まで完全に素晴らしいと思っていました。申し訳ない。
また、子供たちはこちら側のことをよく見ている反面、非常に素直でもあります。話がつまらなかったり長かったりして飽きてくると、明らかに様子が変わってきます。
先生方がよくご指導されているので、騒いだり授業の進行を妨害する子達はいませんが、飽きてくると子供たちの視点が定まらなくなってきます。キョロキョロしたり、あくびをしたり。何というか、クラス全体が蠢いてきます。
前に立っている者にとって、これほどの圧力はありません。非常に申し訳ない気分になり、この時のいたたまれなさは「筆舌に尽くしがたい」という言葉がぴったりです。
こうなったらもう話はおしまい。小ネタとして非常用に準備している実習に逃げます。
それから、子供によって能力の差がすごくあります。
授業の最後にそれぞれの班のスターマインがなぜそのような形になったのか発表してもらうのですが、私よりも遥かに上手く発表する子が毎年数名は必ずいます。この子達が話をしているときは、他の子達は食い入るように発表を聞いています。クラスが蠢くようなことはありません。
これには本当に感動します。圧倒的な差を見せ付けられたときに、悔しさではなく、清々しさを感じてしまうそれに近いです。
ただ、花火の授業を行う目的として、「三河地方の花火の文化」や、「将来の夢を描くことの大切さ」を伝えるという大きなテーマがありますが、やはり花火と花火の授業を素直に喜んでくれることが一番嬉しいですね。
話は戻って、また手紙の中から紹介です。
「今年はお父さんとお母さんと、おばあちゃんと天国のおじいちゃんも、家族みんなで花火を見ました。」
→やってよかったと心から思います。
「花火がすごくきれいでした。炎色反応をもっと勉強したいと思いました。」
→目指せノーベル賞。
「こんなことをさせてくれた校長先生と○○先生(担任の先生)にとても感謝したいです。」
→君、将来出世間違いなし。目指せ役員。
変り種として、こんなものも…。
「加藤さんカッコいい」
→15年経っても覚えててくれたら連絡下さい。
ということで、明日も母校で熱弁ふるってきます。